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2009.9.18 10:00
■残されたメモ、ミヨシさんか
走り書きした文章が意味するものは何なのか。だれが、こんなことを…。自分がそこにいる証を残そうとしたとも思える。誰かはわからないが、自分と同じ境遇の人、あるいは肉親が、それを目にすれば気付くように。闇の中で残したメッセージは新たな“疑惑”を浮かび上がらせている。
* * *
「これ、何やろ」
1980年代初め、北朝鮮の首都、平壌近郊の忠龍里(チュンニョンリ)にある招待所で、拉致被害者の地村保志さん(54)、富貴恵さん(54)夫妻は1枚のメモを見つけた。備え付けの鏡台の引き出しの底板に小さく折りたたんで張り付けてあった。
広げると、A4判ほどの大きさの紙だった。ハングルで朝鮮人の名前が書かれていた。その横には漢字で「久我良子」という日本名。「くがよしこ」と読み仮名もふられていた。文面はこう続いていた。
《50歳代/1978年に革命のために朝鮮に渡ってきた/主人は交通事故で死亡/26歳の娘がいて、結婚した》
ほかにも、記述はあった。「久我良子」が北朝鮮に渡る前に、漢字と片仮名が入った名称の工場に勤務していたことや、新潟・佐渡の住所。メモの下の方にボールペンのようなもので塗り消された跡もあった。
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「書いた人は本当のことを書きたいのだが、どうしても書けない。自分の存在を知ってもらいたいが、知らせることができない」
地村さん夫妻の文面に対する印象はこうだったとされる。富貴恵さんが招待所の世話係の女性に尋ねると、「久我良子」は「あなたたちが来る前に住んでいた女性で、招待所を出て韓国人の漁師と結婚した」と説明されたという。
* * *
忠龍里の招待所は平壌から直線で南南東に約22キロ、標高約300メートルの月隠山(ウォルウンサン)の南西に広がる山里にあった。
地村さん夫妻がこの招待所に入ったのは拉致された翌年、79(昭和54)年11月だった。夫妻は転入直後に結婚。以後約7年間をこの招待所で過ごした。
同じ地区の招待所には79年から85年秋にかけて、横田めぐみさん=拉致当時(13)=や田口八重子さん=同(22)、めぐみさんの元夫の韓国人拉致被害者、キム・チョルジュン氏らが相次いで転入。一時期は、日本人被害者6人が同時に暮らすほどの“日本人集住地”だった。そこに、「日本から来た」と告白する女性がいたことを、警察当局は重視している。
* * *
「ずっと気になっていたんです。ひょっとして、曽我ひとみさんのお母さんではないだろうかって…」
平成16年9月中旬、警察当局の事情聴取に協力していた富貴恵さんは、北朝鮮の招待所で見つけた「久我良子」のメモについてこう話したという。
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「佐渡」という住所、北へ渡った78(昭和53)年という時期、娘の存在、「ソガミヨシ」と3文字が重なる「クガヨシコ」という名前…。曽我ミヨシさん=同(46)=との共通点は偶然とは思えない。「漢字と片仮名が入った名称の工場に勤務」の部分も気になる。ミヨシさんは「北越ヒューム管工場」に勤務していたからだ。
ミヨシさんは、昭和53年8月12日、娘の曽我ひとみさん(50)と一緒に、北朝鮮工作員らによって佐渡から拉致された。2人は当初、政府認定の被害者には入っていなかった。平成14年9月17日の日朝首脳会談で、北朝鮮側が一方的に示してきた「生存者」の中に「ソガ・ヒトミ」という名前があり、拉致事件としての本格捜査が始まった。
帰国したひとみさんの供述やその後の捜査で、2人は一緒に連れ去られていたことが判明したのだ。
日本政府はその後、ミヨシさんの消息についても北朝鮮側にただしたが、「承知していない」の一点張りで、ミヨシさんの入国自体を認めていない。
だが、招待所のメモを残したのがミヨシさんだったとすれば、北朝鮮側の嘘(うそ)がまた上塗りされることになる。それは隠さなければならない理由があることを連想させ、拉致の闇の深さを象徴しているともいえる。
◇
北朝鮮が日本人拉致を認めた「9・17」から7年。膠着(こうちゃく)状態が続く中、北朝鮮に突きつけるべき新たな「情報」が浮かんだ。代わったばかりの政権は北朝鮮とどう対峙(たいじ)するのか。曽我ミヨシさん、ひとみさん拉致事件の闇を追う。
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【痕跡】曽我さん母娘拉致の闇(中)「母にあてた手紙」
2009.9.19 10:00
■ミヨシさんは佐渡にいない
昭和53年8月中旬。
拉致被害者、曽我ひとみさん(50)を乗せた工作船は北朝鮮東北部の港湾都市、清津(チョンジン)港に入った。ひとみさんは一緒に襲われた母、ミヨシさん=拉致当時(46)=が見当たらないことが心配でならなかった。
北朝鮮に連れてこられて2~3週間が過ぎたころ、拉致の指揮を執り、日本の警察から実行犯として国際手配されている女工作員、キム・ミョンスク容疑者に恐る恐るたずねた。
「母に会いたい。いったいどこにいるのですか」
キム容疑者は困った様子でこう話したという。
「お母さんにはお金をたくさん渡した。佐渡にいる。暮らしに困りはしないだろうが、『娘さんは何年かたったら必ず日本に帰国させるので、警察には今回のことは届けず、心配しないで待っていてほしい』とお願いしてある」
母は佐渡にいる…。ひとみさんはその言葉を信じた。しかし、北朝鮮が拉致を認め、24年ぶりに日本へ帰国すると、ミヨシさんは拉致当日の53年8月12日以降行方不明になっていたとがわかる。失望したひとみさんは、実家に戻った際、まだ保管されていたミヨシさんの服を抱きしめて泣いたという。
◆◇◆
ひとみさんと、ミヨシさんはあの夜、新潟・佐渡の真野町(当時)の自宅を出て、近所の雑貨店に買い物に行った。その帰り道に北朝鮮工作員に拉致された。
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「後ろからきた3人組の男に口をふさがれて袋に入れられた後、船で北朝鮮に連れ去られた」
ひとみさんは帰国後、政府関係者の聴取に、こう証言した。北朝鮮による日本人拉致の「典型的な手口」(警察当局者)だ。
ミヨシさんも同じ手口で工作船まで連れ去られたとみるのが自然だろう。
ミヨシさんを現場に残したままヒトミさんを連れ去れば、犯行はすぐに発覚する。すばやく人を袋詰めにし拉致する手口では、一緒にいる人を殺害する時間も限られる。遺体がみつかれば、やはり犯行は発覚する。痕跡を残さずに、被害者が忽然(こつぜん)と消える形で犯行を遂行することこそ鉄則だからだ。
気にかかることは、ほかにもある。
ひとみさんは、工作船の中で、キム容疑者が日本語で誰かと話しているのを聞いた。内容は聞き取れなかったが、自分に話しかけているのではないことは分かったという。もちろん、他の工作員と話していたのかもしれない。ただ、そうであるならば、朝鮮語で話す方が自然だ。相手はやはり被害者だったのではないか-。そうした見方をする警察関係者は多い。
◆◇◆
「あなたが土曜日の夕方に帰宅し、日曜日の午後に病院に戻る勤務シフトで働いていることを知っていた」。清津港に到着後、キム容疑者は、当時病院に勤務していたひとみさんにそういった。よそ者が入ってくれば、すぐにわかるような狭い街で、そこまで調べるには、地元に精通した協力者がいたはずだ。警察当局もそうみている。
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「拉致されたのは偶然ではない。計画されていたものだ」。ひとみさんはそう考えているといい、ターゲットはひとみさんだった可能性が高い。
北朝鮮で、こうした話を聞かされたからこそ、ひとみさんは「お母さんは佐渡にいる」というキム容疑者の言葉を信じ込んだのだ。
ひとみさんは、母あての手紙を監視役の指導員に託したこともあった。
《私は元気です。心配しないでください…》
拉致の非道さがにじむ。
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【痕跡】(下) 封印された消息 いつ戻る母のぬくもり
2009.9.20 01:42
「あの日、一緒に買い物に行っていなければ…」
拉致被害者の曽我ひとみさん(50)はつらい胸の内を明かした。今年8月、いまだ消息不明の母、ミヨシさん=拉致当時(46)=ら拉致被害者の救出を求めるパネル展が開かれるのに合わせ、街頭に立ったときのことだ。
支援組織「曽我さん母娘を救う会」の和田二則(つぎのり)会長(70)は「狙われたのは自分。一人だけで買い物に行けばお母さんは被害に遭わずに済んだのだ、という思いは強いのだろう」と話す。なぜ被害者がここまで、自分を責めなければならないのか。北朝鮮による拉致の非道な仕打ちはいまだに続いている。
31年前の8月12日、当時19歳で佐渡総合病院の准看護師だったひとみさんは、休日でミヨシさんと夕食の買い物に出かけた帰りに、一緒に拉致された。
しかし、北朝鮮側は、ミヨシさんは「入境していない」と主張し、安否不明の状態が続く。ミヨシさんは12月で78歳になる。
ひとみさんはこの夏、切ない思いをコメントとして発表した。「世界にたった一人しかいない母の安否を知りたいのです。母を含めた家族5人で、佐渡の家で一日も早く暮らせることを望んでいます」
***
コメントは、家族の帰国から5年の節目となった7月、ひとみさんが佐渡市役所を通じて出したものだ。
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今年からは、家族4人が一つ屋根の下で暮らすことができるようになりました」と家族がともに暮らせる喜びが、控えめにしたためられていた。ひとみさんは市内の特別養護老人ホームで勤務し、夫、ジェンキンスさん(69)も市内の観光施設に勤務、2人の娘も新潟市内の専門学校を卒業し佐渡へ戻ってきた。
8月の署名活動には、地元で就職が決まった長女、美花さん(26)も加わり、仲むつまじい様子で寄り添う親子の様子が支援者を安堵(あんど)させた。
しかし、家族、地域とのきずなが深まるにつれ、ひとみさんのミヨシさんに対する思いは募る。「家族が幸せを感じる一方で、ずっと気がかりな母のことが頭を離れません」
帰国から約半年後の平成15年5月、ひとみさんは「行方の分からない私の母のことを知ってほしい」と東京で開かれた国民大集会に参加。「生死のはっきりしない家族を思うことはつらく、本当に苦しいことです」と語った。その後、日本で家族と生活していく苦労もあり、公の場で母の救出を訴える機会は減った。
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5月にひとみさんと面会した田口八重子さん=同(22)=の兄で家族会代表の飯塚繁雄さん(71)は「家族の職場や生活などようやく環境が整ったところで、老後の不安もあるでしょう。お母さんを救出したい気持ちはあるけど、十分力を注げないもどかしい様子だった。『一緒に活動できずに申し訳ない』と、北朝鮮での様子などを一生懸命話そうとしてくれた」と話す。
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帰国した地村保志さん(54)、富貴恵さん(54)夫妻が、北朝鮮の招待所でみつけた「佐渡出身 久我良子(くが・よしこ)」というメモが存在していたことが今回、明らかになった。メモを書いた人物の生い立ちは、ミヨシさんに重なる部分が目立つ。
それがミヨシさんの残したものだとしたら…。違うとしても、被害者たちと同じ境遇にあった日本人女性がいた可能性は濃厚なのだ。代わったばかりの政権はこの「痕跡」をどう生かすのか。鳩山内閣が発足した日、ひとみさんは新政権に願いを込めた。
「限られた時間の中で一日も早い解決を待っています。膠着(こうちゃく)状態にある拉致問題の早期解決のため、精力的に行動してくれることを期待しています」
◇
連載は加藤達也、石川有紀が担当しました。
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16日は曽我さんも参加 北朝鮮による拉致被害者・曽我ひとみさん(50)が1978年8月に母親と共に拉致されて12日で丸31年が経過した。母・ミヨシさん(当時46歳)の消息は依然分からないままで、支援団体「曽我さん母娘を救う会」は16~18日、佐渡市の小木町商工会館で写真展を開くなどし、全面解決に向けて世論に訴える。
写真展は、曽我さんら拉致被害者、佐渡島から拉致された可能性が指摘される特定失踪者の大沢孝司さん(失踪(しっそう)時27歳)=旧巻町出身=らの写真パネル約50点を展示。16日には曽我さんも参加して同会館前で署名活動を行う予定だ。
同会の和田二則会長(70)は、「あっという間に31年が過ぎてしまった。拉致が忘れられることのないような活動を少しでも多く行いたい」と話している。(2009年8月13日読売)
日本は12番目の締結国となった。条約は拉致などを犯罪として処罰する内容で、20か国の締結で発効する。北朝鮮は締結していない。(2009年7月24日 読売)
訴状などによると、田原氏は、4月25日に放送された討論番組「朝まで生テレビ!」で、政府が横田さんら2人の生存を前提に交渉していることが日朝交渉を難航させているとし、2人は「生きていない」と発言した。有本さん夫妻は「外務省高官から伝え聞いたかのような虚偽を、テレビを通じて広く全国に伝えたことは違法性が高い」としている。
読売新聞の取材に、明弘さんは「田原氏には発言を訂正してもらいたい」と話した。田原氏は「表現は乱暴だったが、外務省高官への取材に基づく発言であり、今後、法廷で主張していく」とコメントした。
外務省が6日発表した。任期は同日から3年間。日本人の所長就任は初めてだ。
小和田氏は皇太子妃雅子さまの父で、外務次官や国連大使を経て、2003年2月からICJの裁判官を務めている。
中曽根外相は6日、「小和田氏の選出を歓迎する。我が国として国際社会における法の支配の推進に積極的に貢献したい」との談話を発表した。
ブッシュ政権が北朝鮮に対する妥協策を正式発表する前に、身内の共和党大統領候補が疑問をつきつける異例の展開となった。
マケイン氏は声明で、「最近の(米朝)交渉は、日本人拉致問題に対処していないように思える。深刻な手抜かりだ」と拉致問題の重要性を強調。現政権の対朝交渉を公然と批判した。